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♪***シューマン作曲うっちい編「異国から--『子供の情景』第1番--」***

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NO.9 【松竹梅】
---解説【伝承】---

このページの内容

 傅山・明末清初

 書風は傅山(1607〜1684)の行書巻子本を参考にしました。
 傅山ふざん)。初名は鼎臣、のち改めて山。あざなは青竹、青山、仁仲など、別号も非常に多く石道人、嗇廬、朱衣道人など30近く知られています。
 明末清初に長条幅という縦に長大な形式の書作品が流行し、張瑞図ちょうずいと)黄道周こうどうしゅう)王鐸おうたく)倪元ろげいげんろ)(王へんに路)傅山ふざん)などによって代表される連綿草という書風が生まれました。古典から学んだ異体字を混ぜたり、のたうちまわって何字でも続く連綿やそれに近いもので、この五人の書風は一脈あい通ずるところがありますが、その生き方は同じではありませんでした。

 張は幸いにも明室の滅亡する前にその生涯を閉じました。黄は清軍にとらえられて殺され、倪は自殺して明朝に殉じました。王は二朝に仕えて礼部尚書にまで昇り後世その人格をとやかくいわれました。
 傅は明王朝の滅亡する以前から黄冠をいただき朱衣をまとって清王朝に反抗の意を表明しました。当時から書名は高く、諸方に流寓しては反清抗争に参加したようです。逃げ隠れし仮病をつかい清朝に仕えることを固辞し、78歳で死ぬまで「反骨」をもってつらぬき通しました。
   cf.書跡名品叢刊「清・傅山集」、中国法書ガイド55「明 傅山集」--二元社--

解説は画像の下に続きます

松竹梅


 手習い

 6歳で芸事を始めるのがよいということで、私は近所のご隠居さんに書の手ほどきを受けました。
 お正月のことです。先生の部屋にまだ墨の乾いてない大きな作品が広げてありました。私のために同じ半切(35×135センチ)を広げ、大きな筆に墨を含ませてくださいました。縦に3文字の行書を筆順を教えてもらいながら書き写して持ち帰ると母が読み解いてくれました。
 お正月だからおめでたい言葉ねと。

 松竹梅・徳目

 松は巌にも根をおろし、環境の厳しいところでも堂々と元気よく長生きです。盆栽や庭木の筆頭です。いつも緑が美しく、姿も年齢と共に風格を加えそれぞれに魅力的になります。防風林、防砂林として人々の暮らしを守ってくれます。マツヤニはニスや墨の原料として必要です。

 竹は曲がったことが嫌いで腹の中が白い。風になぶられても雪の重さに押し伏されても折れず、元気に立ちあがります。すくすくと成長し繁殖力も旺盛です。たけのこは食用に、竹は建材、造園、釣り竿や物干し竿、ざる、食器、花器など日常の道具に、根は尺八にと、とても役に立つ日本の生活になくてはならない植物です。

 梅はまだ寒いときから一番に咲いて「花の兄」ともいわれます。庭木として愛され、清楚な花、気品のある香です。実は塩漬けにされ干されて酸っぱい梅干ばあさんになって薬用食品として日本の食生活を守っています。

 字形から木の父は松、木の母は梅。
といったところでしょうか。他にもあればメールで教えてください。
 このようにして毎年、年の初めに人生の指針、徳目を確認し、子孫に伝えていたのでしょうね。

 敗戦ということ

 その年にはまだどの家も門か戸口の両側に「門松」と称して、雄松、雌松の小枝に半紙と水引をかけて飾っていました。ところが、その後山林保護のため門松は禁止ということで、半紙くらいの紙に松竹梅の絵を小さく印刷したものが配られるようになり、それも何年とたたないうちに配られなくなりました。そのことを両親は、戦争に負けたので和魂洋才の「和魂」がすべて削られるのだと申しました。
 悔しいのだと感じました。戦争に負けるということは文化が亡びることなのですね。

 物事は複雑な方が

 日本も領土を拡大したときに日本語教育を強制していました。
 世界中がひとつの言語になれば便利なこともあるでしょうが、それぞれの言語の持っている知恵という財産を失うことになり、もったいないことですね。
 そう言う意味でも日本は負けてよかったと思います。外国に負けたのではなく天に負けたのではないでしょうか。
 物事は複雑な方がいろんな局面に強くて役に立つことも多いでしょう?意見調整の智恵を開発していけばよいことではありませんか。

 突然話は戻ります。松は栽培可能な植物ですが、傘を借りているのでモミの木に遠慮することにして、新年、松の内のディスクトップやホームページを「松竹梅」で飾りません?

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