書風は元の趙孟フ(兆+頁)(1254〜1322字は子昂)の「蘭亭十三跋」(56歳、1310)を参考にしました。餞別にもらった王羲之の名品の拓本に感銘して32日の船旅の間毎日鑑賞し、書いた感想文で、彼の書論としての価値もあります。
趙子昂はおびただしい量の絵や書作品を残しています。今、私の手元にある「中国故宮博物院蔵 趙子昂六体千字文」という本は、大篆・小篆・隷書・章草・楷書・草書の六体で、65歳のとき二日間で書いたものです。6000字を乱れず書いてあり、まさに神業です。高僧について禅の修業もしていたそうです。 ところで、忠臣二君に仕えず、貞女二夫に見えず、とは生涯に君・夫は一人に定めよとも取れ、スパイになるな、父親をはっきりさせろ、という程度の意味にも取れるのですが、書道史ではそういう倫理解釈よりも漢民族のプライドの問題だと聞いたことがあります。そんな批判を受けながらも異民族に下った、清(満州、女真族)の王鐸は文部大臣としてたいした功績をあげず、二君に仕えたとして中国の書道史から抹殺されました。それに対し、元(蒙古族)の趙子昂は元王朝の重臣として活躍したことで人格をとやかくいわれながらも、その功績は大きく扱われています。
趙子昂は南宋の、絵画と書に優れた貴族でした。宋の宮廷で使われていた王羲之を基にした貴族的な書画を研究しつづけ元王朝で広め、深めました。これによって書が中唐の顔真卿・宋の四大家といった革新的書風の後、停滞気味であった流れに、復古という息吹を与えました。 余談になりすが、日本では王鐸を学ぶ人が多くあります。文化の違いかと思います。遠くは極悪人スサノオをも神とし、近くは戦犯も合祀する、ヤマトゴコロが感じられます。外国の人に解かってもらいたいところです。 2000.9.19.