秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ 天智天皇
ご存知、百人一首の一番。
この歌にはわからないことがあります。天皇が田に出てしかも庵の中で濡れるようなことにあうというのはどんな状況なのでしょう。百姓に成り代わっての歌だとか、作者不詳の歌を天智天皇作としたとか、色んな説があります。
二宮尊徳の解釈はこうです。 「二宮尊徳翁夜話」- 明治20年 福住正兄著 二宮尊徳に聞いた説話を言文一致体で著した- より壷竹訳。「新講・二宮尊徳夜話」黒岩一郎博士の注釈があります。明徳出版社 。
この御歌を歌人はただ言葉の説明だけして深い意味が無いように講釈している。どんなことでも自分の心だけでは理解できないものだ。
さて、春夏はたくさんの種類の植物が芽を出し、育ち、枝葉が繁り、花が咲いて、秋冬になれば葉が落ち実が熟して、植物は枯れる。つまり、植物の終わりだ。
ことの終わりというもの、奢るものは亡び、悪人は災いにあい、盗人は刑せられ、というふうに一生の行いに対しての報いの結果がでることを、植物の熟する秋の田になぞらえてお作りになった御製であろう。
苫をあらみとは政治が荒くて行き届かないのを嘆かれたのだ。御慈悲御憐みの深いことが言外にあらわれている。
この者はこんなことをしたので獄門にする、私の袖は涙に濡れる。この者は火炙りにする、私の袖は涙に濡れる。誰は家政の不行き届きで外出禁止とする、私の袖は涙に濡れる。
悪事をして処刑される者がでるも政治が行き届いてないのが原因、奢りに長じて破産する者があるのも私の指導が足りなかったため、御憐みの御泪で御袖をおしぼりになるといふ歌だ。感銘しますね。 私ははじめて野州の物井に行って村落を巡回した。人民は離散してただ家だけが残り、あるひは立腐れとなって、礎石だけが残り、屋敷だけあるいは井戸だけが残り、実に哀しくあっけない形になっているのを見ると、気の毒にこの家に老人もいただろう、女や子供もいただろうに、今このように雑草が生い茂り、狐や狸の住処に変わってしまっている、と思うとほんとうに我が衣手は露にぬれつつの御歌も思い合せて、私も涙を流した。
藤原定家卿が、百首の巻頭にこの御製を載せられて、今多くの人が知っているのは悦ばしいことだ。感謝しなければならない。
原文
此の御歌を歌人の講ずるを聞けば、ただ言葉だけにして深き意もなきが如し。何事も己が心だけならでは解せぬものなればなるべし。
それ、春夏は百種百草芽を出し、生い育ち、枝葉繁り栄え百花咲きみち、秋冬に至れば葉落ち実熟して、百種百草みな枯れる。即ち植物の終わりなり。
凡そ事の終りは奢る物は亡び、悪人は災いにあひ盗人は刑せられ、一生の業果の応報を、草木の熟する秋の田によせての御製なるべし。
苫をあらみとは政治荒くして行き届かざるを嘆かせ給ふなり。御慈悲御憐みの深き、言外にあらはれたり。
此の者は何々によって獄門に行ふものなり、わが衣手は露にぬれつつ。此の者は火炙りに行ふものなり、わが衣手は露にぬれつつ。誰は家事不取締りにつき蟄居申しつくる、わが衣手は露にぬれつつ。
悪事をして刑せらるる者も政治の届かぬ故、奢りに長じて滅亡する者も我が教の届かぬ故と、御憐みの御泪にて御袖をしぼらせ給ふといふ歌なり。感銘すべし。
予始めて野州物井に至り村落を巡回す。人民離散してただ家のみ残り、或ひは立腐れとなり、石据えのみ残り、屋敷のみ残り井戸のみ残り、実にあはれはかなき形を見れば、あはれ此の家に老人もありつるなるべし、婦女児孫もありしなるべきに、今この如く萱葎生ひ茂り、狐狸の住処と変じたり、と思へば実に我が衣手は露にぬれつつの御歌も思ひ合せて、予も袖をしぼりしなり。
京極黄門、百首の巻頭に此の御製を載せられて、今諸人の知る所となれるは悦ばしき事なり。感拝すべし。
小倉百人一首はすっかり武士の社会になってしまった1235年、藤原定家(1162〜1241)が73歳のとき、嵯峨の小倉山のふもとの別荘のふすまに貼る色紙の歌として100首選んだものです。
年代の古いもの順に二首一対の歌合せのかたちに選ばれています。
一番がこの「秋の田・・」、二番は持統天皇の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」。
一番が二宮尊徳の解釈のように政治を歌っているとすれば、二番は香具山に住む巫女たちを歌っていると読んで、天皇のまつりごとの政と祭の一対として最初に掲げたと考えると定家の気持ちがわかるような気がします。
なお、現在楽しまれている歌留多のあそびは戦国時代の南蛮貿易でカードが伝来してからできたものです。