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NO.7 【 秋の田 】
---解説【百人一首】---

このページの内容

 二宮尊徳の解釈

  秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ 天智天皇
 ご存知、百人一首の一番。
 この歌にはわからないことがあります。天皇が田に出てしかも庵の中で濡れるようなことにあうというのはどんな状況なのでしょう。百姓に成り代わっての歌だとか、作者不詳の歌を天智天皇作としたとか、色んな説があります。
 二宮尊徳の解釈はこうです。

 「二宮尊徳翁夜話」- 明治20年 福住正兄著 二宮尊徳に聞いた説話を言文一致体で著した- より壷竹訳。「新講・二宮尊徳夜話」黒岩一郎博士の注釈があります。明徳出版社 。

 この御歌を歌人はただ言葉の説明だけして深い意味が無いように講釈している。どんなことでも自分の心だけでは理解できないものだ。
 さて、春夏はたくさんの種類の植物が芽を出し、育ち、枝葉が繁り、花が咲いて、秋冬になれば葉が落ち実が熟して、植物は枯れる。つまり、植物の終わりだ。
 ことの終わりというもの、奢るものは亡び、悪人は災いにあい、盗人は刑せられ、というふうに一生の行いに対しての報いの結果がでることを、植物の熟する秋の田になぞらえてお作りになった御製であろう。
 苫をあらみとは政治が荒くて行き届かないのを嘆かれたのだ。御慈悲御憐みの深いことが言外にあらわれている。
 この者はこんなことをしたので獄門にする、私の袖は涙に濡れる。この者は火炙りにする、私の袖は涙に濡れる。誰は家政の不行き届きで外出禁止とする、私の袖は涙に濡れる。
 悪事をして処刑される者がでるも政治が行き届いてないのが原因、奢りに長じて破産する者があるのも私の指導が足りなかったため、御憐みの御泪で御袖をおしぼりになるといふ歌だ。感銘しますね。

 私ははじめて野州の物井に行って村落を巡回した。人民は離散してただ家だけが残り、あるひは立腐れとなって、礎石だけが残り、屋敷だけあるいは井戸だけが残り、実に哀しくあっけない形になっているのを見ると、気の毒にこの家に老人もいただろう、女や子供もいただろうに、今このように雑草が生い茂り、狐や狸の住処に変わってしまっている、と思うとほんとうに我が衣手は露にぬれつつの御歌も思い合せて、私も涙を流した。

 藤原定家卿が、百首の巻頭にこの御製を載せられて、今多くの人が知っているのは悦ばしいことだ。感謝しなければならない。

原文
 此の御歌を歌人の講ずるを聞けば、ただ言葉だけにして深き意もなきが如し。何事も己が心だけならでは解せぬものなればなるべし。
 それ、春夏は百種百草芽を出し、生い育ち、枝葉繁り栄え百花咲きみち、秋冬に至れば葉落ち実熟して、百種百草みな枯れる。即ち植物の終わりなり。
 凡そ事の終りは奢る物は亡び、悪人は災いにあひ盗人は刑せられ、一生の業果の応報を、草木の熟する秋の田によせての御製なるべし。
 苫をあらみとは政治荒くして行き届かざるを嘆かせ給ふなり。御慈悲御憐みの深き、言外にあらはれたり。
 此の者は何々によって獄門に行ふものなり、わが衣手は露にぬれつつ。此の者は火炙りに行ふものなり、わが衣手は露にぬれつつ。誰は家事不取締りにつき蟄居申しつくる、わが衣手は露にぬれつつ。
 悪事をして刑せらるる者も政治の届かぬ故、奢りに長じて滅亡する者も我が教の届かぬ故と、御憐みの御泪にて御袖をしぼらせ給ふといふ歌なり。感銘すべし。
 予始めて野州物井に至り村落を巡回す。人民離散してただ家のみ残り、或ひは立腐れとなり、石据えのみ残り、屋敷のみ残り井戸のみ残り、実にあはれはかなき形を見れば、あはれ此の家に老人もありつるなるべし、婦女児孫もありしなるべきに、今この如く萱葎生ひ茂り、狐狸の住処と変じたり、と思へば実に我が衣手は露にぬれつつの御歌も思ひ合せて、予も袖をしぼりしなり。
 京極黄門、百首の巻頭に此の御製を載せられて、今諸人の知る所となれるは悦ばしき事なり。感拝すべし。

 小倉百人一首

 小倉百人一首はすっかり武士の社会になってしまった1235年、藤原定家(1162〜1241)が73歳のとき、嵯峨の小倉山のふもとの別荘のふすまに貼る色紙の歌として100首選んだものです。
 年代の古いもの順に二首一対の歌合せのかたちに選ばれています。
 一番がこの「秋の田・・」、二番は持統天皇の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」。
 一番が二宮尊徳の解釈のように政治を歌っているとすれば、二番は香具山に住む巫女たちを歌っていると読んで、天皇のまつりごとの政と祭の一対として最初に掲げたと考えると定家の気持ちがわかるような気がします。
 なお、現在楽しまれている歌留多のあそびは戦国時代の南蛮貿易でカードが伝来してからできたものです。
解説は画像の下に続きます



 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ

秋の田の(乃)か(可)りほの庵の苫をあらみ我が(可)衣手は露に濡れつつ


 定家の書

 書風は藤原定家(1162〜1241)筆「後撰和歌集断簡・紹巴切」を参考にしました。紹巴切では1首を1行に、横長の形にした文字をつめて書いています。普通、1首を2行から4行に書くのですが、その形にとらわれず実用的な書き方をしています。平安時代の縦に流れる貴族的な書風とは全くといってよいほど違っています。
 小倉山の別荘に選んだ百人一首を揮毫するように頼まれて、下手だからと固辞したのですが、とうとう書かされてしまったそうで、書にはあまり関心がなかったのかもしれません。
 父の俊成も直筆が多く残っていますが、線は縦長で筆力があり、平安末期の特徴が出ています。この親子の筆跡からも平安から鎌倉への変容があざやかにわかります。

 ひらがなは平安時代中期に完成し、それに新鮮味を加えつづけて院政期には読みにくいほどに造形を重視した書風が多様にできていました。一方では単純形で自然な感じに書き流す人もあり、文化の爛熟に終わりを感じさせて鎌倉時代、この定家の書風が大流行しはじめました。王羲之を規範とする日本の文字にも顔真卿に匹敵する反王羲之が登場したといえるでしょう。定家流は愛くるしく、読みやすく、漢字と仮名が同じ調子で書ける、実に便利な書風だったのではないでしょうか。

 最近、かな書道界にこの定家流が出始めました。江戸時代のお家流から解き放たれて明治時代に平安かなの復古が流行し、大正・昭和とそれは定着し発展し、敗戦後には可読性を軽視して絵画的な発展をしました。そして、再び読める書への回帰を模索している今、定家の書が古文書としての価値だけでなく芸術書としても眼をつけられはじめたといえます。実用文字がデジタルになって、この鎌倉時代の実用書がどういう役割を果たすのか興味があります。芸術に求められる貴族的な気品・格調への思いを残しながら、時代は自由で強い漢字かな混じりの書を模索しています。

 定家本

 定家流が流行したのは定家の歌作・国文研究の多さと、歌壇の大御所になったことによるものでしょう。定家は大歌人俊成48才のときの子で母の宮廷での力などもあって、早くから宮廷に出仕し歌人・歌学者・国文学者として活躍しました。80年の生涯に手がけた研究書は藤原定家と平安朝古典籍の書写校勘に関する総合データベース にあるように、多くの歌集・物語などで定家本とよばれます。また、19歳から73歳頃までの日記「明月記」も歴史資料として貴重なものです。歌の選や指導をとおして京極中納言藤原定家の書は広まり、また、旅の連歌師などによって没後もその断簡が茶掛けや手鏡の収集家のもとに運ばれ、江戸時代にも神聖視され続けたようです。

 定家仮名遣い

 1000年頃までは発音に違いがあったワ行とハ行の使い分けなどが定家の時代にはすでにわからなくなっていました。そこで定家が「下官書」に書いた仮名の用法が標準とされ、江戸時代にも加筆出版されて「定家仮名遣い」と呼ばれています。これは契沖(1640〜1701)が平安中期以前の文献を調査して「和字正濫鈔」を著して「歴史的仮名遣い」に改められるまで用いられました。
 定家は、和歌には漢語を入れないのが常識だったのを漢語を用いてもよいとしました。これはちょうど散文でも和漢混交体が確立し、現在の日本語の基本ができたのと同じ時代です。
 現在も書き言葉は漢語が多く、話し言葉は和語が多くつかわれて、完全には言文一致ではありませんが歌にも漢語が混ざっています。助詞の「は(ワ)」「を(オ)」といった書字のきまりもあります。このような国語の基本概念が定家によって形を成したといえます。中国では政権が代わる都度文字と暦がかわります。日本では政治の集権化にともなって規則が発生しています。
 紹巴切には漢字が使われていますが書家のように当て字を楽しむということはしていません。パソコンがあったならたぶんパソコンでこれらの仕事をしたことでしょう。パソコンになったら日本語はどう変わるのかまだわかりませんが、やはりすべてのものごとと同様に整ったり乱れたりを繰り返すのだろうと思います。2001.12.1.
                   
     主な参考文献   貴重本刊行会   三井文庫蔵 たかまつ帖
     



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 質問があります

  A大学 デザ…学科4年のBといいます。

定家の書は私も見た時から好きです。この定家の書について質問があります。

現在、卒業制作でCを作るというようなことをして います。その制作中、古筆のかなについて書かれた本で、かなは2つのパターンに別 れるとありました。一つ目は「優美流麗」。二つ目は「幽玄枯淡」。
定家流の書体はどちらのタイプに属するのでしょうか。自身の目が肥えているわけで はないので教えていただきたいです。

お忙しいでしょうが回答よろしくお願いします。

 回答

  Bさま

ホームページご覧くださいまして有難うございます。
面白そうな卒業制作ですね。

定家は書美を追求して書いたとは私には思えません。
「優美流麗」の平安仮名に平安末期の武士の力強さが加わったのが
「幽玄枯淡」とすると、
定家は鎌倉時代の人と感じます。
自分の歌学のために多くの文献を書き写して、それも正確にということで、
美しくはあるけれど判読しないと読めない平安仮名の継承ではなく、
独自の書風を作ってしまったと考えます。
実用の書であり、読みやすいということを追求した書風と見えます。

Bさんは定家の書に美しさを見出されたのだと思います。 またこの書風が鎌倉時代大流行したのも、貴族的でなく その時代に合っていて、面白く見えたからに違いないと思います。
「優美流麗」「幽玄枯淡」に二分する解釈から離れるとつかみやすいと思います。 どこに魅力を感じられたか、その点を強調する作品を期待したいと思います。 ご成功をお祈りしております。

壺竹  2004.9.16. 


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