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NO.6 【 白鳥 】
---解説【文筆】---

このページの内容

白鳥しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも)まずただよう (若山)牧水

 初出は雑誌に、「白鳥はくてふ)は哀しからずや海の青そらのあをにも)まずただよう」
白と青の対比だけに推敲して歌集に収めたこの名作ができました。歌人の意図を汲んでシラトリがハクチョウで飛んでいたか浮かんでいたか何羽いたかどこにいたかなどと研究することは避けて鑑賞したいものです。白鳥は牧水自身であり、書いている私であり、読んでいるあなたではないでしょうか。

 文章表現

 二つの「あを」を漢字とかなに書き分けていますが、同じ発音同じ意味の言葉をなぜ書き分けるのでしょう。
三島由紀夫の「文章読本」--昭和34年初版--から少しご紹介します。(作者にも読者にも申し訳ありませんが、新仮名遣い・新字体に変えています。)

 『先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。あなた方は小説を書くときに、印刷効果の視覚的な効果というものを考えたことがありますか。彼ははっきり答えて、絶対にないと申しました。われわれから見ると、Yという字が下に長くのびていたり、Lが上に長くのびていたり、英語の印刷上の効果の多少の起伏や凸凹があるというところが面白いと思われるのですが、外国人はついぞそういうものに注意を払ったことがないらしいのです。そのかわりどんな散文であっても、外国の文章は耳からの効果がある程度大切にされなくてはなりません。もちろんそれが行進曲だの、ワルツだのというような派手な音楽的効果でなくても、無韻の韻といった音のないところから生ずる静かなリズム、人間の内的なリズムが感情にあらわれたようなリズムは、あくまでも重んじられなければなりません。しかし象形文字を持たない国民である彼らは、文章の視覚的効果をまったく考慮しないで綴ることができるのであります。
 われわれにとっては、一度、象形文字を知ってしまった以上、文章において視覚的効果と聴覚的な効果とを同時に考えることは、ほとんど習性以上の本能となっております。』

 このごろ口述筆記による出版が多くなって視覚的効果をあまり意識しない文章も増えているかと思いますが、あるIT関係の本に漢字は三分の一程度が良いと書かれていました。日本語は視覚的効果を考えることから完全に抜けきれるものではないようです。

 文章を味わう

「文章読本」のなかで文学と書の関係に触れる部分を抜粋してみます。

男文字と女文字

  •  純粋な日本語とはかなであります。平がなのくにゃくにゃした形から、われわれはあまり男性的な敢然としたものを感ずることはできません。実際平がなで綴られた平安期の文学は、ほとんど女流の手になったものでありました。

  • 平安朝時代には漢字が男文字と言われ、平がなが女文字と言われていました。そして『和漢朗詠集』のような漢詩の詩集が、ほとんど男性の手によって綴られ、一方、三十一文字、和歌の集には(もちろん男子もたくさん登場しますが)女性も負けずに------負けずにどころか、代表的地位を占めて活躍しました。

  • 漢字によって少なくともわれわれは視覚美という厄介なものを学びました。
文章を味わう習慣
  • 歌舞伎に行きますと、ときどき侍が悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて「どりゃ書見をいたそうか」と言って本を読み出します。 われわれはこんなふうに本を読むことはほとんどありません。昔はわれわれが字引を枕にしたり、お尻に敷いたりすると親に叱られたものですが、今ではそんなことを叱る親はありますまい。泉鏡花氏は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れはしでも、およそ字の書いてあるものは粗末にあつかうことをしなかったと言いますが、いまのマス・コミ時代に、そんなに文字を大切にしていたら身がもたなくなるでしょう。

  • さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生まれていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、一番いい文章だということができましょう。

 文学と書

 今も義務教育の書写が国語科に属しているように、文学と書は不可分のものでした。と過去形にしたのは将来はわからないという意味です。明治時代ころまで書の先生がたいてい漢学か和歌の先生を兼ねていたのが、私が子供のころ習った先生は絵画を教えてくださいました。今習っている先生は書だけです。(とはいってもこっそり歌の意味や選び方を教えてくださることもありますが。)だいたいの時代の流れはそのようでした。

 文字を離れて文学はないし、俳句一つ飾るとしたら活字ではつまらないので毛筆でということになるあたりも日本の書というものが今後とも廃れることはないだろうと思う根拠の一つです。味わうに足る書と味わうに足る文学とは分業であっても共通の文化のなかにあると言えるでしょう。

 現在残っている平安時代の古筆は歌人というより能書家の手になるものです。あの高度に発達した貴族文化の最高峰の物が分業で作られていることを思うと、明治以後、文学と書が別の道として発達し平安時代を凌ぐ書作品が生まれていることももっともなことではないかと思います。

 つぎに、書と文学は似ていると感じたところを少しですが紹介します。文章を書、と置き換えて読んでみてください。

文章の実際

  • 私はまた、二、三行ごとに同じ言葉が出て来ないように注意します。一例が、まえに「病気」と書いたときは、次には「やまい」と書こうとします。

  • 文章のなかに一貫したリズムが流れることも、私にとってどうしても捨てられない要求であります。

  • 私はこうして文章を書いていますが、去年書いた文章はすべて不満であり、今書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう。それが進歩の証拠だと思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります。自分の文章の好みもさまざまに変化して行きますが、かならずしも悪い好みから良い好みに変化してゆくとも言いきれません。それでもなおかつ現在の自分自身にとって一番納得のゆく文章を書くことが大切なのであります。

  • 私はブルジョア的嗜好と言われるかもしれませんが、文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。(中略)日本語がますます雑多になり、雑駁になり、現代の風潮にしたがって与太者の言葉が紳士の言葉と混りあい、娼婦の言葉が令嬢の言葉と混りあうようなこの時代に、気品と格調ある文章を求めるのは時代錯誤かもしれませんが、しかし一言をもって言い難いこの文章上の気品とか格調とかいうことは、闇のなかに目がなれるにしたがって物がはっきり見えてくるように、かならずや後代の人の眼に見えるものとなることでありましょう。
     具体的に言えば、文章の格調と気品とは、あくまで古典的教養から生まれるものであります。そうして古典時代の美の単純と簡素は、いつの時代にも心をうつもので、現代の複雑さを表現した複雑無類の文章ですら、粗雑な現代現象に曲げられていないかぎり、どこかでこの古典的特質によって現代の現象を克服しているのであります。文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。

 文章も三島由紀夫のように気品と格調を重んじる人があるのですね。多くの芸術がそうなのかもしれません。私も気品と格調ある芸術が好きで自分の作品でも最終追求したい要素です。素人でもこうして文章を書かざるをえないこともあるもので、改定前の作品に比べると少しはましになった書と文とに、満足できないながらもこれが今の精一杯の姿だからしかたないとあきらめるしかありません。

解説は画像の下に続きます




白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染そまずただよう


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 元永本古今集

 書風は伝源俊頼『元永本古今集』を参考にしました。古今和歌集の完本としては最古の写本です。上巻奥に「元永三年七月二十四日」とあるので元永本古今和歌集とよばれています。料紙の美しさは西本願寺三十六人家集に次ぐものでかさね綴じ上下2冊、製作当時は各200枚であったと推定されます。

 書写様式は、たとえば仮名序が並列の1頁7行書き、巻一が歌3行書、巻二が歌2行書、巻八は散らし書きというように、大体において、一巻中は1つないし2つの方法で、統一をとっています。ことに見開き左右の紙を舞台とした散らし書きは手本として愛されています。

 技法は側筆で、連綿もはなち書きも巧みで平安時代の名筆の十指のうちにはいります。漢字とかなの調和も特徴です。固有名詞や一般名詞のみならず万葉仮名のような使い方も含めて多くの漢字をうまくとけこませています。

 元永三年(1120年)の記述があるため、同筆の多くの古筆の書写年代が推定されるばかりでなく、名手20の寄合書きの西本願寺三十六人家集の年代推定ができ、そこから派生的に多くの古筆の書写年代が推測できます。

 伝承筆者

 この書風は、多くは伝源俊頼としていますが、その書技が専門家の手になる特徴をもち、歌首の誤写などを意に介していない書写態度などから、歌人の源俊頼ではないと考えられています。現在では藤原行成より4世の、定美とする説が有力です。

 古人の書籍は本のまま鑑賞されて、室町時代、和歌・連歌の盛行とともに盛んになりました。もと連歌師で茶人の竹野紹鴎(1502〜1555)が藤原定家の「小倉色紙」を朝の茶会に掛けて以来、元本から切り取った古筆切れが茶掛けとして使用されるようになり、古筆切れの茶掛けが名筆鑑賞の意味で多くなるのは江戸時代に入ってからのようです。

 古筆手鑑の作製の記録は、豊臣秀次(1568〜1595)が早い例で、石田三成も古筆切れを求めていた記録があります。戦国から桃山時代にかけての公家の衰退、戦国武将の王朝文芸への憧憬が古筆切れを多く世に流布させる一因となったと考えられます。

 江戸時代になると宮廷や大名を中心に古筆がいっそう盛んに収集され、多くの巻子本・冊子本が切り離され、伝来の筆者名などもわからなくなってきました。それに応じて古筆了佐(1572〜1662)のような、古筆の鑑定の専門家が現れました。

 了佐は、近衛前久・烏丸光広に古筆の鑑定法を学び、豊臣秀次から「琴山」の印を拝領したと伝えられています。その子孫は江戸幕府に仕え、寺社奉行のもとで「古筆見」として、代々の家職としました。近世の古筆手鑑には各切に「琴山」の印が押された極札が付されていることが多いのはこの古筆家の手で作製されたものが多いことをものがたっています。

 この極札に記された筆者名は現代の学問上からすれば、ほとんどが間違っているといえます。しかしそれは、著名な筆者名の冠せられた古筆切が権威をもって存在し、それを基準に鑑定するのが古筆家の鑑定法であり、また、必ず筆者名を明記しなければならなかったからで、現代の研究と同列には論じられないところがあります。 2001.10.20.
                   
     主な参考文献  書芸文化新社   平安朝かな名蹟選集第38巻 伝源俊頼 元永本古今集 
                貴重本刊行会   三井文庫蔵 たかまつ帖解説
     



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