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NO.21 【 朝に 】
---解説【道徳】---

このページの内容

あした)に道を聞けばゆうべ)に死すとも可なり     論語・里仁第四

読む楽しみ

 1. 朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり
 2. 人間は考える葦である
 3. 人はパンのみにて生きるにあらず

と、3つ並べて考えました。3つとも精神というものに思いを誘引してくれます。わかり易いのは3ですが、飾っておくには難解で含みの多い言葉がよいかもしれません。解く楽しみと、解いた喜びと、再考する愉しみ。これは芸術の要素のひとつかもしれません。明快に伝わることも気持ちのよいことですが、ちょっと考えさせられるのも味ではないでしょうか。
 1.と2.はその点楽しめます。
 特に1.は、死という強く響く言葉を使って、「勉強しなさいよ!」と孔子が弟子たちに言っている光景を思い浮かべました。行動にかりたてる熱意が感じられます。

 なおこの言葉は、子路に、顔回に・・と特定した教えではありません。こうした言葉の場合、解釈は自由で、絶対的なものはないと思います。人により時により違うということも魅力でしょうか、「朝に・・」は、昔から日本人の多くが学び愛した言葉のひとつです。

解釈例・・大町桂月

 ご参考までに論語にぞっこんだった大町桂月の訳(明治45年)を転載しておきます。
(壷竹訳)

 下等動物は、生殖の役がすめば、すぐに死ぬ。種族継続が動物にとって唯一の仕事だ。
 進化した人間となると、物質的精神的の二方面がある。物質的方面から言えば、妻子が立ちゆくようにさえすれば死んでもよい。しかしそれだけでは、まだ動物的だ。精神的方面は、動物になくて、人間にのみにある。道というものがあってこそ人だ。
 道を悟らないなら、万巻の書を読んでも、巨万の財を積んでも、飛行機を作っても、まだ人間の役がすんではいない。
 道を悟れば、人間の極に達したといえる。うれしや、うれしや、これで死んでも遺憾ない。
 道を悟らずに酔生夢死する人は、七十八十まで生きた処で、まことに気の毒なものだ。
 朝夕と言いわけているのは、『直に』の意に、あやをつけたものだ。
 人間にあっては、種族の継続は、最早問題にならない。それが問題になるような人は、動物よりも劣った人だ。生死よりも道が重い。種族の継続が動物の生命であり、道の継続が人間の生命だ。
 道に達したら、直に死ねと、命令的に強いているのではない。道に達したら、この身はどうなっても、遺憾ないといふ意味だ。他動的ではなく、自動的だ。
 忠臣が忠に死し、義士が義に死し、愛国者が国に殉じて、遺憾ないのは、即ちこの心の発露だ。
 この言葉は、求道者の真情を吐露し、人を鼓舞して万鈞の力がある。道というものの尊い理由を極度に発揮している。孔子の萬言の極致が結晶してこの一言に在る。・・・(後略)・・・ 

 下等動物は、生殖の役すめば、直に死す。種族継続が動物唯一の生命也。
 進んで人間となれば、物質的精神的二方面あり。物質的方面より言へば、妻子が立ちゆくやうにさへすれば死すとも可也。然しそれだけでは、まだ動物的也。精神的方面は、動物になくして、人間にのみある所也。道ありてこそ人なれ。
 道を悟らずんば、万巻の書を読むも、巨万の財を積むも、飛行機を作るも、まだ人間の役がすまず。
 道を悟れば、人間の極度に達したり。うれしや、うれしや、これで死すことも遺憾なき也。
 道を悟らずに酔生夢死するものは、七十八十まで生きた処が、まことに気の毒なもの哉。
 朝夕と言ひわけたるは、『直に』の意に、あやをつけたる也。
 人間にありては、種族の継続は、最早問題にならず。それが問題になるやうな人なら、動物よりも劣りたる人也。生死よりも道が重し。種族の継続が動物の生命にして、道の継続が人間の生命也。
 道に達せば、直に死ねと、命令的に強ふるに非ず。道に達したら、この身はどうなるとも、遺憾なしといふの意也。他動的にあらずして、自動的也。
 忠臣が忠に死し、義士が義に死し、愛国者が国に殉して、遺憾なきは、即ちこの心の発露也。
 求道者の真情を吐露し、人を鼓舞して万鈞の力あり。道の尊き所以を極度に発揮す。孔子萬言の極致結晶してこの一言に在り。・・・(後略)・・・

 さて、『人間にありては、種族の継続は、最早問題にならず』というのは明治のこと。・・環境ホルモン・核汚染・感染症・・・種族の継続を問題にしなければいけなくなっていることを思うと、人間は所詮、動物の一種ですね。再び人間らしく暮らせる地球にするためにも道徳は大事なことのようです。

解説は画像の下に続きます
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朝に道を聞けば夕に死すとも可なり

あしたにみちをきけばゆふべにしすともかなり
安之多仁美知遠幾計波由不へ耳之春東毛可奈利


草仮名、秋萩帖について

 書風は秋萩帖あきはぎじょう)(伝小野道風筆)を参考にしました。

 秋萩帖は仮名の原点とも言うべき、しかも小野道風(894〜966)筆と伝えられるほどの名筆です。
 「草」の手、つまり草書体の漢字を表音文字として使い、中国のくずしかたにとらわれない仮名書体で書かれています。
 ヤ行のエを区別した文字使いをしていることなど書写年代の古い特徴があり文学的にも資料価値の高いものです。
 接いでありますが第1紙と第2紙以下とは手が違い、紙もちがいます。和歌が作者名なしで第1紙に2首、第2紙以下19枚に46首書かれた巻子本(巻物)です。
 帖と名づけられているのは江戸時代にはすでに版刷りされた法帖(手本)として有名であったためです。

手本と模写

 第1紙の書き振りは傑出しており、第2紙以下はこれの模写とみられます。
 書かれたのは第1紙が朱雀天皇の御代(931〜946)にもとめても不当でなく、第2紙以下は花山天皇の御代(983〜9)の前後とみられます。
 第1紙だけでも高い価値はありますが模写で全貌が見られるところにさらに素晴らしい価値があります。
 習うときには第1紙をしっかり習ってから以下の部分の字形等を参考にするのがよいと思います。

 いまでは古典として学ばれる良寛の個性的な書風は、秋萩帖や懐素に根源があるといわれています。
 優れた古典を手本として模写することで子孫に伝え残していくことができ、自分の糧として創作に役立て突然変異を産むことも楽しいことです。

教材は最高のものを

 書とはすこし離れますが、数年前、国語の教科書に「礼記」が載っていて気になりましたので、ご一考頂きたく、吉川幸次郎著「中国の智恵」より一節引用します。 

 しかしたといそれらの説話( 「礼記」・「大載礼記」・「韓詩外伝」 )が、いかに私を楽しませようとも、それらのもつおもしろさは、孔子の言行の直接な記録である「論語」のおもしろさには及ばない。一たい、西方の文明に接触するまでの中国の文明体系のなかでは、小説のおもしろさは、歴史記録のもつおもしろさに及ばないのが、常である。「水滸伝」のもつおもしろさは、結局において「史記」のもつおもしろさに劣り、「三国演義」のもつおもしろさは、陳寿の「三国志」、もしくは「史治通鑑」のもつおもしろさに、劣る。空想によって「人間の理想」をえがくよりも、実際に行為された事柄のなかに「人間の事実」を見いだすことが、この国の文明の姿であった。そうしてその点、中国の文明は、おなじく東洋の文明といっても、印度の文明とは、対蹠的である。

 二宮尊徳も、「頭のよい人は道徳に遠い。文学があれば申韓(重刑主義の法律学者申不害と韓非子)を、文学者でなければ三国志・太閤記を引いて話をし、論語・中庸などは話さない。道徳の本理は頭では理解できないからだ。血気盛んで偽心がめばえる青年期にこれら俗書を与えることは悪いことだ。」と指摘しています。いまと似た状況だったのでしょうか。漢文に限らず教材・遊具などは吟味し最高のものを与えたいものです。
                                         2001.3.18.

  主な参考文献  「平安期かな名蹟選集第19巻 伝小野道風筆 秋萩帖」 書藝文化新社
             「新譯論語 大町桂月譯解」 至誠堂書店 
             「中国の智恵」吉川幸次郎著 新潮文庫 
             「新講二宮尊徳夜話」黒岩一郎著 明徳出版


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