読む楽しみ 1. 朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり と、3つ並べて考えました。3つとも精神というものに思いを誘引してくれます。わかり易いのは3ですが、飾っておくには難解で含みの多い言葉がよいかもしれません。解く楽しみと、解いた喜びと、再考する愉しみ。これは芸術の要素のひとつかもしれません。明快に伝わることも気持ちのよいことですが、ちょっと考えさせられるのも味ではないでしょうか。 なおこの言葉は、子路に、顔回に・・と特定した教えではありません。こうした言葉の場合、解釈は自由で、絶対的なものはないと思います。人により時により違うということも魅力でしょうか、「朝に・・」は、昔から日本人の多くが学び愛した言葉のひとつです。 解釈例・・大町桂月ご参考までに論語にぞっこんだった大町桂月の訳(明治45年)を転載しておきます。(壷竹訳) 下等動物は、生殖の役がすめば、すぐに死ぬ。種族継続が動物にとって唯一の仕事だ。 進化した人間となると、物質的精神的の二方面がある。物質的方面から言えば、妻子が立ちゆくようにさえすれば死んでもよい。しかしそれだけでは、まだ動物的だ。精神的方面は、動物になくて、人間にのみにある。道というものがあってこそ人だ。 道を悟らないなら、万巻の書を読んでも、巨万の財を積んでも、飛行機を作っても、まだ人間の役がすんではいない。 道を悟れば、人間の極に達したといえる。うれしや、うれしや、これで死んでも遺憾ない。 道を悟らずに酔生夢死する人は、七十八十まで生きた処で、まことに気の毒なものだ。 朝夕と言いわけているのは、『直に』の意に、あやをつけたものだ。 人間にあっては、種族の継続は、最早問題にならない。それが問題になるような人は、動物よりも劣った人だ。生死よりも道が重い。種族の継続が動物の生命であり、道の継続が人間の生命だ。 道に達したら、直に死ねと、命令的に強いているのではない。道に達したら、この身はどうなっても、遺憾ないといふ意味だ。他動的ではなく、自動的だ。 忠臣が忠に死し、義士が義に死し、愛国者が国に殉じて、遺憾ないのは、即ちこの心の発露だ。 この言葉は、求道者の真情を吐露し、人を鼓舞して万鈞の力がある。道というものの尊い理由を極度に発揮している。孔子の萬言の極致が結晶してこの一言に在る。・・・(後略)・・・ 下等動物は、生殖の役すめば、直に死す。種族継続が動物唯一の生命也。 さて、『人間にありては、種族の継続は、最早問題にならず』というのは明治のこと。・・環境ホルモン・核汚染・感染症・・・種族の継続を問題にしなければいけなくなっていることを思うと、人間は所詮、動物の一種ですね。再び人間らしく暮らせる地球にするためにも道徳は大事なことのようです。 |
秋萩帖は仮名の原点とも言うべき、しかも小野道風(894〜966)筆と伝えられるほどの名筆です。 いまでは古典として学ばれる良寛の個性的な書風は、秋萩帖や懐素に根源があるといわれています。 しかしたといそれらの説話( 「礼記」・「大載礼記」・「韓詩外伝」 )が、いかに私を楽しませようとも、それらのもつおもしろさは、孔子の言行の直接な記録である「論語」のおもしろさには及ばない。一たい、西方の文明に接触するまでの中国の文明体系のなかでは、小説のおもしろさは、歴史記録のもつおもしろさに及ばないのが、常である。「水滸伝」のもつおもしろさは、結局において「史記」のもつおもしろさに劣り、「三国演義」のもつおもしろさは、陳寿の「三国志」、もしくは「史治通鑑」のもつおもしろさに、劣る。空想によって「人間の理想」をえがくよりも、実際に行為された事柄のなかに「人間の事実」を見いだすことが、この国の文明の姿であった。そうしてその点、中国の文明は、おなじく東洋の文明といっても、印度の文明とは、対蹠的である。 二宮尊徳も、「頭のよい人は道徳に遠い。文学があれば申韓(重刑主義の法律学者申不害と韓非子)を、文学者でなければ三国志・太閤記を引いて話をし、論語・中庸などは話さない。道徳の本理は頭では理解できないからだ。血気盛んで偽心がめばえる青年期にこれら俗書を与えることは悪いことだ。」と指摘しています。いまと似た状況だったのでしょうか。漢文に限らず教材・遊具などは吟味し最高のものを与えたいものです。 主な参考文献 「平安期かな名蹟選集第19巻 伝小野道風筆 秋萩帖」 書藝文化新社 |
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