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♪***J.S.BACHシンフォニーア第11番***
---NO19よごと--- NO21朝に--- 目次---


NO.20 【 笠の上 】
---解説【観点】---

このページの内容

我が雪とおもへば軽し笠の上     宝井其角

 人生の荷物

 雪が笠の上にも降り積んで重みが増してきた、少しでも軽くなろうと考え方を変えてみます。雪の降りしきるようすが眼に浮かびます。 

 この句を書いていて中学生が親に対して一度は発する、「誰が産んでくれたと頼んだ」という疑問について考えてみました。
 たしかに子供が欲しかった、あるいは出来ちゃったのでしょうが、果してこの子が欲しかったのでしょうか。選んだのは子どもの方ではなかったでしょうか。
 自分がこの親を選んだのだと認める事で、また、この子が自分を親として選んでくれたのだと思うことで、人生の荷物が少し軽く感じられはしないでしょうか。よろこびも大きくならないでしょうか。
 宿命的な事態に対しては、人のせいにしても解決しないのですから、自分が選んだ境遇なのだと思うことで自負心をもって対処できるのではないか、などと思いました。

 持てる力を発揮するコツ

 気の持ち方で不可能をも可能にするとした戦時の洗脳教育の傾向はこの句の中にも感じます。しかしこの程度なら心理学的に証明可能な範囲かもしれませんね。
 茶道に伝わる利休百首のなかにある似た内容の歌、
 手前には重きを軽く軽きをば重くあつかう味わいを知れ
を思い出しもしました。軽いものは重そうに持ち、重いものは軽そうに持つ。茶道が禅宗を、ひいてはインド哲学(ヨーガ)を伝えているということを感じる歌です。美しく、持てる力を十分に発揮するコツのようです。

 一つの言葉でも人によって、また時によって感じるところが変わります。そうした含みの多い言葉が飾っていて厭きない言葉ではないかとおもいます。

 

解説は画像の下に続きます
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我が雪とおもへば軽し笠の上





 忠臣、顔真卿

 書風は唐の顔真卿(709〜785)の「麻姑仙壇記」を参考にしました。

 顔真卿がんしんけい)の祖先は孔子の弟子顔回に遡り、一族には能書が多く、学者としての名門です。魯国の重臣の家系とするものの、五世の祖顔之推が南朝に見切りをつけ北斉に仕えてから長安の住民です。
 顔真卿は多くの碑を書いていますが、晩年に「顔氏家廟碑」を建て、始祖から自分の孫達まで詳細に叙述し、熱を込めて祖先の学徳を述べ、言外に自分の学問や書法の淵源の深いことも著しました。

 幼くして父をなくし、母と母方の祖父に育てられ27歳で進士及第、官職についたものの30歳で母の喪に服するため失業。以後、地方官など転職を重ね軍人になり、中央の官にも短期間つくことができました。44歳の時書いた「多宝塔碑」が今伝わる中で一番若い時のものです。
 その2年後安禄山とその部下史思明が反乱。平原太守の顔真卿にも安禄山から平原・博平2郡を守るよう命が下りましたが、ひそかに使いを出し反乱にくみしない旨を都に奏上して、玄宗皇帝は顔も覚えてない忠臣がいることに狂喜しました。
 安禄山は大燕皇帝と名乗って狂躁となり部下に殺された一方、史思明は強く、顔真卿はついに平原を逃れ、河北は史思明の支配に下りしました。
 翌年顔真卿は皇帝の疎開先に行って自らと一族の官爵を得ました。ウィグル軍の来援を得て長安を恢復したころ、顔真卿の官爵は憲部尚書・御史太夫。すぐに左遷されて地方へ・・・といった配転が繰り返されている内、史思明一族は自滅し8年にわたる内乱は終わりました。なお不安定な弱体国家で顔真卿の転勤は続きました。
 60歳代には豊かな任地に過ごすことができ、70歳のとき気の合わなかった宰相が失脚したため抜擢され入朝し、刑部尚書をかわきりに名誉ある老臣として重んじられました。
 最期は、軍閥李希烈の反乱に対して説得に行くよう命を受けて、死を覚悟で李希烈に会いに行き、寝返りの要請を断って殺されました。77歳でした。

 顔真卿の書

 書の観点を、誰が・何を・どのようにの3点とすれば、顔真卿は文武両道に秀でた忠臣で、先祖の名を高め、正義を主張し、独自の書風(顔法と呼ばれる)を作った中国の誇りとする書家です。
 なお、唐代には顔真卿の書の評価は目立つほどではなく、人気の出たのは宋の蘇軾が激賞してからのことです。
 また、実用的で、楷書は明朝体の元になったとされています。

 書の観点

 中国では書というものが人格の表象であるとされ、書を通して道徳を伝えようとする政治的な配慮が評価の重点となっています。日本ではさほどではありませんが、誰が書いたかはやはり価値基準のひとつではあります。
 書に限らず現代は専門化されていて、書を専業にしない人は学書の系譜に載せない場合もあるようです。しかし、書以外の芸術家や政治家など書家以外にも玄人はだしといわれる人や作品が当然あるはずです。時代が変われば評価が変わることもあります。捨てがたい作品(手紙なども)は残しておいてください。後世になって役に立つかもしれません。
                                         2001.2.26.

  主な参考文献  「書道講座 1楷書 西川寧編」 二玄社
             「書道技法講座 5顔謹礼碑 比田井南谷編」 二玄社 
             「書道技法講座 23争坐位稿 山崎大抱編」 二玄社 


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