荒木博之著「やまとことばの人類学」-日本語から日本人を考える-朝日選書293-朝日新聞社-1985-の訳は
「あなたのよ(=一年という距離をおいて与えられる生命力)がみちみちて、千回も八千回も繰り返し更新され、小さな小石が岩になって苔の生える永劫未来まで若々しくありますように」
となっています。
この本に書かれている君が代のヨ、ちよにやちよにの「よ」についての研究をご紹介させていただきます。 「よ」は一般に、世、代、節、齢とされています。
竹取物語にある「此の子を見つけて後に竹とるに、節をへだててよごとに黄金ある竹を見付けること重なりぬ」
の「よ」が鹿児島方言で竹の節と節の間を「よう」というのと共通しています。この節の間隔が人の生涯であったり、家督であったり、政権主体の係累であったりもします。
これだけでは人の寿命や稲の作柄を「よ」ということが説明できないので、宮古島の「世乞い」の祭を観察して「よ」とは
1. 力、生命力の根源
2. 繰り返される時間的な距離、
の二面性にとらえるという説をたてられました。
これによって『源氏物語』薄雲の
「世は、つきぬやあらん。物心ぼそく、例ならぬ心ちなんするを。」
(寿命は尽きてしまうのだろうか。心細くて、いつもと違う気持ちがするのです)
の「世」がはっきり「生命力」と理解できます。
稲妻やひと切づつに世が直る (『おらが春』)
(稲妻がピカリ、ピカリと光るたびに作柄が良くなってゆく)
稲の夫がピカリと光って妻である稲のところに通えば、米粒を立派に成育させるための「よ」つまり生命力が、「直る」すなわち更新される、という意味です。
土佐などで収穫の結果を「よが良かった」「よが悪かった」「よがあった」などという「よ」に単なる収穫のみならず、収穫を豊かにせしめる力の存在を読み取ることができます。
また「常世国」の「よ」もインド・ヨーロッパ的な直線的時間空間とは違った「ある時間的距離において与えられている生命力」が常住不変に存在するところ、「常世」ということになるでしょう。
地域によって違いはありますが「湯」はユまたはヨと発音されます。英語では水です。あえてhot waterと言って見たところで薬湯・温泉・入浴の意味にはなりません。日本人にとって「湯」には再生の生命力が篭められていると考えられます。
関西の女性・子どもことばでオブというのも「湯」です。この発音には土佐のオブやウブが魂に近い生命力を意味することとも通じます。『古代史ノート』の谷川健一氏が「うぶすな」は「産小屋の内部に敷いた砂」を指すとした説もオブの意味を湯だけでなく聖なる涌き水、潮も再生の力を有していると考えることで充分に納得できます。現に琉歌にこの三種の水が並列に乙女が再生すると歌われているものがあります。
壬生部、乳部などと表記される「ミブ」といわれる人々は天皇の「御湯殿」における神聖な秘儀をとりしきっていました。
江戸の銭湯の入浴の形も洗い場と浴槽とは、豪華な鳥居を飾り立てたようなしきりで別室となっていて石榴口と呼ばれる小さな戸口から出入りしました。山東京伝が「賢愚湊銭湯新話」に書いているところでは「風呂口より出る人は産湯を浴びて生まれでる如く、着物を脱ぎ捨てて風呂へ這入る人は、此世に金銀家財を残し置きて、死して沐浴を受くるが如し」。
日本人の風呂好きはきれい好きなだけではないようです。 湯種蒔く新墾の小田を求めむと足結出で濡れぬこの川の瀬に (『万葉集』巻7・1110)
青柳の枝きり下ろし湯種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも (『万葉集』巻15・3603)
この「ゆだね」を「斎種」つまり豊穣を祈り斎み清めた種であるとするのが通例ですが、この万葉の歌2首ともに湯種としている、実際に湯に種籾をひたして使う種蒔き儀礼のあること、さきに述べたように湯そのものに「再生の生命力」が篭められているとする日本的現実などから、これは実際に湯に浸しつつその湯の生命力を籾に付加せしめ、来るべき秋の豊穣を願う呪的儀礼に際して用いられるモミと考えてよいのではないでしょうか。
こうして「よ」・「ゆ」という音で表現される日本語の中に日本人独自の時間論、空間論、あるいは生命論をさえ知ることができます。これは日本人の宇宙論とでもいうべきものに他ならないでしょう。
・・・たくさんの研究事項の中からかいつまんで少しだけのご紹介になってしまって申し訳ございません。君が代の「よ」を一年とされているわけについては次作で紹介させていただきます。食品栄養摂取量だけでは量りきれない生きる力のもとを、稲妻や湯にも感じる日本人の宇宙論をどうお思いになりますか。