インパクに参加しました
♪***うっちい作曲「砂あそび」***
---NO17健康--- NO19よごと--- 目次---


NO.18 【 君が代 】
---解説【生命力】---

このページの内容

 この色表示の部分は、荒木博之著「やまとことばの人類学」-日本語から日本人を考える-朝日選書293-朝日新聞社-1985

 君が代は千世にやちよに細石の巌と為りて苔の産すまで
 「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで (国旗及び国歌に関する法律-平成11.8.13)

 国歌の原典

 初出は『古今集』巻7「賀歌がのうた)」、
 「わが君は千世にやちよにさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで」
 この時代にすでに「よみ人しらず」の古歌でした。『和漢朗詠集』にも採られているところを見ると朗詠歌として民間に歌い継がれてきていたのでしょう。のち鎌倉・室町時代には歌謡として白拍子が「君がよはひはちよに・・・」と歌舞し、南都興福寺の延年舞や、江戸時代の神楽歌、琵琶歌にもとりあげられています。
 こうした呪術的な色合いを持って祝歌として伝わってきたことは、音律が良く比喩の内容も優れているのみならず、言語に内在する力、つまり言霊への信仰心の介在を感じさせます。
 明治三年、当時日本で唯一の洋楽隊は薩摩藩で、諸外国に国歌があるのを知って、古来薩摩藩士がめでたい折には必ず用いていた「君が代」を天皇に対する礼式曲として選んだことにはじまって国歌となりました。

 「君が代」を「天皇の治世」とする固定解釈がなされ軍国主義者に利用されたのは、残念なことでした。
 世界中の国歌の中で最もすぐれた歌詞であると評価されている国歌を持っていることを誇りに思います。

 君が代のヨ、ちよにやちよにの「よ」

 荒木博之著「やまとことばの人類学」-日本語から日本人を考える-朝日選書293-朝日新聞社-1985-の訳は
 「あなたの(=一年という距離をおいて与えられる生命力)がみちみちて、千回も八千回も繰り返し更新され、小さな小石が岩になって苔の生える永劫未来まで若々しくありますように」
 となっています。
 この本に書かれている君が代のヨ、ちよにやちよにの「よ」についての研究をご紹介させていただきます。

 「よ」は一般に、世、代、節、齢とされています。
 竹取物語にある「此の子を見つけて後に竹とるに、節をへだててよごとに黄金ある竹を見付けること重なりぬ」
 の「よ」が鹿児島方言で竹の節と節の間を「よう」というのと共通しています。この節の間隔が人の生涯であったり、家督であったり、政権主体の係累であったりもします。
 これだけでは人の寿命や稲の作柄を「よ」ということが説明できないので、宮古島の「世乞い」の祭を観察して「よ」とは 
 1. 力、生命力の根源 
 2. 繰り返される時間的な距離、
の二面性にとらえるという説をたてられました。

 これによって『源氏物語』薄雲の
 「世は、つきぬやあらん。物心ぼそく、例ならぬ心ちなんするを。」
 (寿命は尽きてしまうのだろうか。心細くて、いつもと違う気持ちがするのです)
 の「世」がはっきり「生命力」と理解できます。

 稲妻やひと切づつに世が直る  (『おらが春』)
 (稲妻がピカリ、ピカリと光るたびに作柄が良くなってゆく)
 稲のつま)がピカリと光って妻である稲のところに通えば、米粒を立派に成育させるための「よ」つまり生命力が、「直る」すなわち更新される、という意味です。
 土佐などで収穫の結果を「よが良かった」「よが悪かった」「よがあった」などという「よ」に単なる収穫のみならず、収穫を豊かにせしめる力の存在を読み取ることができます。

 また「常世国」の「よ」もインド・ヨーロッパ的な直線的時間空間とは違った「ある時間的距離において与えられている生命力」が常住不変に存在するところ、「常世」ということになるでしょう。

 「ゆ」について

 地域によって違いはありますが「湯」はユまたはヨと発音されます。英語では水です。あえてhot waterと言って見たところで薬湯・温泉・入浴の意味にはなりません。日本人にとって「湯」には再生の生命力が篭められていると考えられます。
 関西の女性・子どもことばでオブというのも「湯」です。この発音には土佐のオブやウブが魂に近い生命力を意味することとも通じます。『古代史ノート』の谷川健一氏が「うぶすな」は「産小屋の内部に敷いた砂」を指すとした説もオブの意味を湯だけでなく聖なる涌き水、潮も再生の力を有していると考えることで充分に納得できます。現に琉歌にこの三種の水が並列に乙女が再生すると歌われているものがあります。
 壬生部、乳部などと表記される「ミブ」といわれる人々は天皇の「御湯殿」における神聖な秘儀をとりしきっていました。
 江戸の銭湯の入浴の形も洗い場と浴槽とは、豪華な鳥居を飾り立てたようなしきりで別室となっていて石榴口と呼ばれる小さな戸口から出入りしました。山東京伝が「賢愚湊銭湯新話」に書いているところでは「風呂口より出る人は産湯を浴びて生まれでる如く、着物を脱ぎ捨てて風呂へ這入る人は、此世に金銀家財を残し置きて、死して沐浴を受くるが如し」。
 日本人の風呂好きはきれい好きなだけではないようです。

 湯種蒔く新墾あらき)の小田を求めむと足結あゆひ)出で濡れぬこの川の瀬に (『万葉集』巻7・1110)
 青柳の枝きり下ろし湯種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも (『万葉集』巻15・3603)
 この「ゆだね」を「斎種ゆだね)」つまり豊穣を祈り斎み清めた種であるとするのが通例ですが、この万葉の歌2首ともに湯種としている、実際に湯に種籾をひたして使う種蒔き儀礼のあること、さきに述べたように湯そのものに「再生の生命力」が篭められているとする日本的現実などから、これは実際に湯に浸しつつその湯の生命力を籾に付加せしめ、来るべき秋の豊穣を願う呪的儀礼に際して用いられるモミと考えてよいのではないでしょうか。

 こうして「よ」・「ゆ」という音で表現される日本語の中に日本人独自の時間論、空間論、あるいは生命論をさえ知ることができます。これは日本人の宇宙論とでもいうべきものに他ならないでしょう。

 ・・・たくさんの研究事項の中からかいつまんで少しだけのご紹介になってしまって申し訳ございません。君が代の「よ」を一年とされているわけについては次作で紹介させていただきます。食品栄養摂取量だけでは量りきれない生きる力のもとを、稲妻や湯にも感じる日本人の宇宙論をどうお思いになりますか。



解説は画像の下に続きます


君が代は千世にやちよに細石の巌と生りて苔の産すまで


enlarge

 楷書の祖、「薦季直表」

 書風は魏のショウ(鍾)ヨウ(遥-之+系)(151〜230)の薦季直表せんきちょくひょう)を参考にしました。
 「薦季直表」は楷書の祖とされる鍾ヨウが帝に季直という人の再就職を願い出た推薦状です。中国法書選11魏晋唐小楷集-二玄社-には鍾ヨウ作の7件の拓本が掲載されています。そのうち「薦季直表」と「宣示表」は王羲之のくせがなく後世の臨書でないことがうかがえます。宣示表は擦り減った後、彫り足したもののようで残念ながら不自然な字がほとんどですが薦季直表の方は文面に似つかわしい誠実でなめらかな書きぶりがそのまま見え、筆使いや形に隷書の感性が残っていていかにも真筆といった趣があります。たくさんの鑑蔵印の中に宋の米元章(1051〜1107)の印も押されていますのでそのころ肉筆が存在していたことがわかります。

 扇面

 末広がりでおめでたい扇面形に書きました。
 扇は日本で生まれました。 最初の扇は平安時代、「檜扇」と呼ばれ、記録用の木簡の一方を綴り合わせて創られたもので宮中男子の持ち物として欠くことのできないものでした。 また、蝙蝠扇 (かわほりせん・広げた形がコウモリの羽に似ている・紙を貼った扇)という、片面に扇面紙を貼った扇が作られ、扇骨の数も5本くらいから始まったようです。これは夏用で女性用にも色柄の華やかなものが作られました。 
 鎌倉時代には、日本の扇は中国に渡り、室町時代に唐扇として日本に逆輸入され、唐扇にならった両面貼りの扇が日本でも作られるようになりました。このころには、武家文化などの影響で、能・演劇・茶道・香道などにも取り入れられ、広く用いられるようになりました。
 扇子としての実用と絵画や書を楽しむ芸術性と併せて扇は今でも広く愛されます。縦長のものや横長のもの、紙や絹など材質や主に竹で作られる扇骨の数も多様です。
 扇子として用いず鑑賞用に扇面の形をした紙に書画を書いて額装や軸などにして楽しむこともこの形の美しさとめでたさとに拠るところが大きいと思います。

                                                2001.8.4加筆


---HOME 書は文化を作る--- ---このページのTOPへ---