書風は北魏の張猛龍碑(522・山東省曲阜縣)を参考にしました。
張猛龍碑は書者はわかりませんが魏魯郡太守張猛龍という人の頌徳碑で明末清初ころから楷書の名品として有名になりました。 420年に王羲之(307〜365)の生きた東晋の国の滅亡とともに建てられた宋の国を南朝のはじめとし、439年北魏が乱れていた華北を統一してから、589年の隋の天下統一までを中国の南北朝時代と呼びます。
南も北も王朝は変わりながらも中国の分割統治を提案するわけではなく、それぞれに王朝の正当性を主張していました。鮮卑族の北朝は洛陽・長安の都を治めてはいましたが漢民族の文化に一目置いていましたし、漢民族の南朝は都を奪回する力がありませんでした。
ときには武力抗争もありましたが普段は文化抗争を行いました。一流の学者を使節として派遣し外交活動をおこない、歓迎会として学術会議なども行ない双方が文化の優位を競いました。
こうした環境の中で仏教に力を入れた北魏は造像記をつくらせ、ほかに墓誌銘・摩崖など多くの刻字作品をつくりながら南朝の文化をも参考にして楷書を完成させました。南朝の行書っぽい楷書ではなく、篆書、隷書を継ぐ正書体として石に彫る楷書です。数々の名品が生まれ、中でも鄭道昭の鄭羲下碑とこの張猛龍碑は楷書の最高峰として高く評価されています。
さらに隋による統一を経て唐の太宗の時、楷書の名品ができました。第1は王羲之から南朝の正統を継ぐ虞世南70歳ころの「孔子廟堂碑」。第2は張猛龍碑に似ている「楷法の極則」と称される欧陽詢75歳頃の「九成宮醴泉銘」。第3はこの二人の弟子チョ(示+者)遂良46歳の「孟法師碑」(「雁塔聖教序」が代表作ですがこれは行書っぽい楷書)。初唐の三大家といわれ、楷書の手本としてもっとも普及しています。
法を作り完璧なまでにそれに沿ったこれらの書は、中国が歴史上最も栄えた時代の統治の原理をも示しているようです。
太宗皇帝亡き後すぐにこの帝国が乱れたと同じように、初唐の三大家を手本にしているとあまりの精巧さに息苦しくなって、自由が欲しい、書とはなにか・・と思って南北朝時代の楷書に目が向くのです。
その後、中唐の顔真卿は独創とも見える筆遣いで「麻姑仙壇記」などのこれも生真面目な楷書を作り明朝体活字のもとになりました。これは北朝の流れに分類されています。これ以後画期的な典型は出ていません。
楷書は鍾ヨウ(151〜230)に始まりいまだに続いています。日本でもたとえば、光明皇后の「楽毅論」は王羲之の楷書「楽毅論」の模本の臨書ですがそのいきいきした健康な線質に感動をおぼえます。和様では小野道風の「白楽天詩巻」。明治時代になって北魏の楷書はじめ金石学が多く学ばれるようになり多彩な作品が作られるようになりました。 主な参考文献
「書道史随想」 李家正文 芸術新聞社
「北魏 張猛龍碑」 書籍名品叢刊 二玄社
「中国法書ガイド22 北魏 鄭道昭 鄭羲下碑」 二玄社