書風は何紹基(1799〜1873)の行書を参考にしました。
何紹基は清の詩人・書家。字は子貞。父は戸部尚書(大蔵大臣)贈太子太保まで至った人ですが、その父が28歳の時双生児として生まれました。他に2人の弟があり、兄弟4人とも書をよくし、何氏四傑と称されました。3歳の時父は抜貢となって北京に出たのですが、養いかねて紹基らは母方の祖父に養育されました。翌年、父は小官職にありつき、3年後には殿試3番の成績で進士となり、翰林院編集を授けられたので、紹基兄弟は8歳で郷里からまた北京の両親のもとに送られました。23歳以降、父の転勤もあり、転居、旅行の多い生活がはじまりました。37歳で湖南の郷試に合格、翌年進士に合格、国史館勤務などで各地の郷試の考官など出張が多く、54歳で四川省の学政に任じられて3年治績をあげたのですが、時務12事に関する意見書を奏上したのが不穏であるとして斥けられ、57歳で免官になりました。その後も各地を学者としての仕事を得ながら遊歴し、蘇州で75歳で痢疾で死ぬまで漂遊癖は続きました。
中国ほぼ全土をまわって集めた、あるいは観た資料は金石学者(紙以外の文字・文様研究者)としても一家を成していたしるしです。若年から父の仕事の関係もあって著名な学者とのつながりも多く、才能・境遇ともに恵まれた書家でした。
書の基本は顔真卿にあり、生涯をかけて北碑のみならず多くの研究をし、晩年も漢碑の臨書を日課にしていました。細字も懸腕で満身の力をこめて書くなど、個性的で情緒があるおおらかな作風で、手本としてよりも鑑賞用に好まれています。 天花の乱れ落ちるようだと評された何紹基を参考に、いけばなのように散らしました。
書道展に行くと花が飾られ、華道展には書が添えられ、書と花は相性が良いようです。平面と立体、動物の軌跡と生きている植物、モノクロと色彩・・・調和の良い装飾は正反対の要素が原因でしょうか。一方、太い筆で書かれた書作品には厚みのある花材と花器、小筆で細く書かれたものには繊細な花材が合うようです。
部屋や廊下の隅にでも書と花が飾られているといい雰囲気がありますね。玄関や床の間にもこの取り合わせが代表的です。家族や客人や行事にあわせて花も書もかわります。おもてなしの趣向があらわれます。花や花器はもちろん替えますが、掛け軸にしても、色紙や短冊にしても取り替えて楽しむのに便利な形になっています。ふすまや屏風も向きをかえたり片付けたり、昔の家は生活のなかに美術鑑賞が工夫されていました。部屋の仕切り方や花や書画の季節感は日本人の生活に密着していました。そこには収納スペースの少ない今の家屋とは違った、手間のかかる、良く言えばゆとりのある暮らしがあったと懐しく思います。造花の色をした輸入の花が花屋さんに並んでいるのを見ると、ゆがんだ菊や野の草、わずかな小枝を飾ったのが自然で美しかったとも思うのです。 神前に榊をたてて祭り、また花を供えることもある習慣は古代、大和の時代からあり、神が宿るものとして常緑樹が用いられ、また神を慰めるものとして木や花が用いられました。昔から人は花を好みました。花を髪飾りにするといった歌がありますし、「枕草子」には大きな瓶におもしろい枝の桜をさした記述があり、室内に自然の花を持ち込むことが行われ、枝振りも鑑賞の対象になっていたことがうかがえます。
「いけばな」は仏教の宗教儀式の「供華」から宗教色が抜け落ちたものです。床の間のできた室町時代には花の美しさよりもその花を挿し、立て、いけるといった、人間の行為の方に興味の中心が移ってきました。「立花」という中央に枝を立てその前後左右に枝を配する活け方が原形で、立花の専門家として文阿弥や立阿弥の名が知られています。「茶花」はこれとは別に簡素な花材と花器で創成されました。江戸時代にはこの2つの間をとったような「生花」が流行しました。これらは今も流派をついで伝えられています。こうした格式を見せるいけ方ばかりでなく、今は花器も花材もいけ方も新しいものが加えられて現代の生活に活かされています。
華道は、季節のとりあわせ、植物の表裏・花や葉の付き方などの特徴、とめ方、曲げ方、枝葉の整理、いけ方の基本形と応用、飾り方・・・長年にわたって蓄積された技術と感性を伝えている日本固有の芸術です。 主な参考文献
「旧暦」 http://www.jhd.go.jp/cue/KOHO/faq/reki/kyuureki.htm
「中国法書ガイド57 清 何紹基集」 二玄社
「清 何紹基作品集」 書籍名品叢刊 二玄社
「未生流のいけ花」 肥原康甫 講談社
「龍生派の生花と立華」 吉村華泉 講談社