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---NO14竹里館--- NO16一年---目次---


NO.15 【 とまや 】
---解説【墨蹟】---

このページの内容

  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ(藤原定家)

 わび茶のこころ

 花や紅葉の世界からこの茶室に来てみれば何の彩りもない粗末なひと部屋だった。そこにある感慨がわび茶の湯の心であると千利休が選んだ歌です。
 茶室には床の間に軸が掛かりささやかな花が差され、茶釜にお湯がわいているだけで、ほかに何もない、窓の障子を開けて外を見てはいけません。今頃の応接室のようなステレオやテレビやコレクションやじゅうたんや・・・とはちがった雰囲気です。お茶をさしあげるとしたら、あるいはご馳走になるとしたら、どちらをお選びになりますか。見せたい美術品を効果的にみせ、また主客双方の心がはっきりと読み取れるのはどちらでしょうか。禅宗から生まれた茶道はカウンセリングルームのはしりかもしれませんね。

 利休が同じく新古今集の中から選んだ歌がもう一首あります。
 花をのみ侍らん人に山里の雪間の草の春を見せばや(藤原家隆)
 当時も華やかな桜には人気があって、雪間の芽吹きのよろこびを見ようとしない人があると感じられたのでしょうか。そして、そうした間の美しさを表現する定家や家隆や利休は、いかにも日本人といった感じです。明治開国のころ日本の絵画がヨーロッパに運ばれてはじめて西洋人は雪を描いた絵を見たそうです。わが国では万葉集にすでに雪景色をめでた歌が詠まれています。華やかな世界と侘びの世界と両方を楽しむ感性が日本の個性のようです。

 茶の湯の歴史

 茶の寄り合いは14世紀からあり、作法もできていましたが、東山時代(足利義政は村田珠光に茶を学んだ)には唐絵を中国風にいくつも並べて掛けていた書院づくりの茶室が草庵風になったのは利休の工夫です。禅的なこころを日本の感性でとらえた場づくりといえます。また掛け軸も足利義政からのち広まっていく茶道に需要が追いつかず唐絵-宋や元の墨蹟-日本の僧-家元の書と、禅の教えをたどりながら移り変わりました。そう考えるとわび茶は大衆化、経済性を考慮した発明であったともいえそうです。日本家屋の室内意匠が茶室から発展したものであることを思うと、経済力にかかわらず表面には軸一幅の茶室を提案した利休の智恵はすばらしいものといえるでしょう。

 明治時代、岡倉天心は英文で茶の湯の世界を表現しわが国の文化とその精神を知らせました。世界文化と平和に貢献する道のひとつが、おいしくお茶をいただくために一切の無駄を省く、この総合文化、わび茶のこころの普及にあるかもしれません。

 茶掛けと茶道

 茶席で一番の地位を占めるのが茶掛けです。にじり口から誰もいない部屋に入ると、まず床の間の前に両手をついて深く礼をし、お軸を拝見します。文言・作者・表装・寸法・年代などが鑑賞の観点です。掛物は禅僧の手になる墨蹟・家元の書・古筆切れ・消息(手紙)など。何を掛けてあるかでその茶会の趣向がうかがえます。ときには画賛もあります。そんなときには話題も軽妙に運ばれるでしょう。知り合いの文人の作品の時には共通の文化の話に花を咲かせようということですね。近・現代のもので茶の湯の心得がないとおぼしき人の作品や表具は茶掛けとしては好まれないようです。なお、博物館や美術館のなかったころには貴重な鑑賞の機会でもあったでしょう。
 このごろは国旗に対する礼儀を知らないとかいろいろ聞きますが、部屋の上座である床の間の掛物に敬意を払うことは亭主に敬意を払うことであり、礼儀の基本ですね。茶道はお茶の立て方、頂きかたの勉強だけではありません。礼儀の伝承と、それを通して和敬静寂ともいわれる心と、教養を深めるためのサロンです。会社で書類を提出する時の所作には相手への気配りと美しさがでます。敷居を踏まないのは建物の損傷を少くします。席順と挨拶は人間関係を円滑にします。道具の扱いは物と人への感謝の心を育てます。等等多くの礼儀が茶道によって継承されています。
 公家や武士だけではなく茶の産地の百姓、茶道具や茶室建築の職人・商人、遊興の芸人・・・全国各地で茶道は生活文化を美しくし、深い心を育みつたえてきました。そこでは親孝行や、仲の良い交友関係、落ち着いた振る舞い、よくかんで食べましょうなど、礼儀にともなう人としての教養がすべてといっていいほど教えられました。その中に、文学を含む書の鑑賞と、お礼状などを書く書の実技も求められました。手習い(つまり国語)と算盤と茶道は文化国家日本の基盤であったと考えられます。

解説は画像の下に続きます







見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ








 黄山谷

 書風は黄山谷の草書、「李太白憶旧遊詩巻」を参考にしました。
 黄庭堅こうていけん)(1045〜1105)あざな)は魯直、号は山谷道人さんこくどうじん)。宋代、詩人としては、蘇軾そしょく)(1036〜1101)、陸游とならぶ大家とされ、書家としては蘇軾、米フツ(草冠に市)、蔡襄と並ぶ四大家の一人に数えられます。23歳で進士に及第し、当時の政局は二大派閥であったため新法党の時代は地方官、40歳代は旧法党政権のもと中央の官、その後また新法党支配に変わったため左遷され草深い田舎暮らしが三ヶ所、最晩年には国政をそしったというかどで流罪になって2年後61歳で病没しました。南宋の度宗の時代になって、文節とおくりな)されました。

 蘇軾(東坡とうば))と黄山谷の作品には共通点がみられます。蘇東坡に詩才を見出されてから二人ともに不遇の役人生活をしながらの交友が続き、参禅に、芸術にいそしみ、詩文のやり取りをとおして思想、心境を深めていった結果でしょう。時代は貴族的な美文や、美しい書にはあきて、形より主観を大切にした表現をもとめていました。古人の書法を習いつくし俗気を脱するために工夫を重ね、黄庭堅は56歳の時にやっとみずからの書を価値あるものと認めました。王羲之の美しさと顔真卿の生真面目さを兼ね備えた一見いびつな革新的な形と紙に食い込む筆遣いの書は書道史上大きな役割を果たし、今も多くの人が好んで手本としています。

 墨蹟

 わが国では「東坡、山谷、味噌、醤油」という言葉が鎌倉・室町の五山の僧たちの文化をあらわしています。味噌、醤油も当時もっとも教養ある階層である禅僧の往来とともに伝わった舶来文化だったのですね。室町時代には今のような形に完成したそうです。書のほうは女手、男手が一緒になり和様の流儀書道が確立するころでした。その穏やかに治まろうとする実用の書に対抗するにふさわしい書が、黄山谷を学んだ、墨蹟と称される禅僧の書でした。しかしその多くは黄山谷が理想とした「すべて書は拙が巧より多くなければならない」の『拙』をのみ習ったような精神重視のもので技術面で勝れたものは少なく、一般の手習に使われることはありませんでした。侘び茶が形を整えこの墨蹟が茶がけの第一とされたのは禅の教えをつたえた僧侶への尊敬によるものでした。漢文の入試をおこなった五山はすぐれた漢文学をのこすなど功績もありましたが幕府の保護により宗教的には俗化したといわれます。
 なお、墨蹟という言葉は日本では僧侶、たいていは禅僧の書をさし、中国では僧に限らずすべての書を言います。

 話はかわりますが、今このページはIE5.0の彩りの多い画面を見て作っております。ネットスケープのあっさりした画面でご覧くださってる方もいらっしゃるのではないでしょうか。簡単に切り替えができ両方みれるとよいのにと思います。華やぎと侘びの両方を楽しみたい日本人的な贅沢でしょうね。この両面があってこそ両方ともに価値が高まるとは思われませんか。

 主な参考文献
  「淡交 別冊 1994 書の美」 株式会社淡交社
  「中国法書ガイド47 宋 黄庭堅集」 二玄社
  「書の歴史 中国と日本」 榊莫山著 創元社
 


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