書風は黄山谷の草書、「李太白憶旧遊詩巻」を参考にしました。
黄庭堅(1045〜1105)字は魯直、号は山谷道人。宋代、詩人としては、蘇軾(1036〜1101)、陸游とならぶ大家とされ、書家としては蘇軾、米フツ(草冠に市)、蔡襄と並ぶ四大家の一人に数えられます。23歳で進士に及第し、当時の政局は二大派閥であったため新法党の時代は地方官、40歳代は旧法党政権のもと中央の官、その後また新法党支配に変わったため左遷され草深い田舎暮らしが三ヶ所、最晩年には国政をそしったというかどで流罪になって2年後61歳で病没しました。南宋の度宗の時代になって、文節と諡されました。 蘇軾(東坡)と黄山谷の作品には共通点がみられます。蘇東坡に詩才を見出されてから二人ともに不遇の役人生活をしながらの交友が続き、参禅に、芸術にいそしみ、詩文のやり取りをとおして思想、心境を深めていった結果でしょう。時代は貴族的な美文や、美しい書にはあきて、形より主観を大切にした表現をもとめていました。古人の書法を習いつくし俗気を脱するために工夫を重ね、黄庭堅は56歳の時にやっとみずからの書を価値あるものと認めました。王羲之の美しさと顔真卿の生真面目さを兼ね備えた一見いびつな革新的な形と紙に食い込む筆遣いの書は書道史上大きな役割を果たし、今も多くの人が好んで手本としています。
わが国では「東坡、山谷、味噌、醤油」という言葉が鎌倉・室町の五山の僧たちの文化をあらわしています。味噌、醤油も当時もっとも教養ある階層である禅僧の往来とともに伝わった舶来文化だったのですね。室町時代には今のような形に完成したそうです。書のほうは女手、男手が一緒になり和様の流儀書道が確立するころでした。その穏やかに治まろうとする実用の書に対抗するにふさわしい書が、黄山谷を学んだ、墨蹟と称される禅僧の書でした。しかしその多くは黄山谷が理想とした「すべて書は拙が巧より多くなければならない」の『拙』をのみ習ったような精神重視のもので技術面で勝れたものは少なく、一般の手習に使われることはありませんでした。侘び茶が形を整えこの墨蹟が茶がけの第一とされたのは禅の教えをつたえた僧侶への尊敬によるものでした。漢文の入試をおこなった五山はすぐれた漢文学をのこすなど功績もありましたが幕府の保護により宗教的には俗化したといわれます。
なお、墨蹟という言葉は日本では僧侶、たいていは禅僧の書をさし、中国では僧に限らずすべての書を言います。 話はかわりますが、今このページはIE5.0の彩りの多い画面を見て作っております。ネットスケープのあっさりした画面でご覧くださってる方もいらっしゃるのではないでしょうか。簡単に切り替えができ両方みれるとよいのにと思います。華やぎと侘びの両方を楽しみたい日本人的な贅沢でしょうね。この両面があってこそ両方ともに価値が高まるとは思われませんか。
主な参考文献
「淡交 別冊 1994 書の美」 株式会社淡交社
「中国法書ガイド47 宋 黄庭堅集」 二玄社
「書の歴史 中国と日本」 榊莫山著 創元社