見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ(藤原定家) わび茶のこころ花や紅葉の世界からこの茶室に来てみれば何の彩りもない粗末なひと部屋だった。そこにある感慨がわび茶の湯の心であると千利休が選んだ歌です。茶室には床の間に軸が掛かりささやかな花が差され、茶釜にお湯がわいているだけで、ほかに何もない、窓の障子を開けて外を見てはいけません。今頃の応接室のようなステレオやテレビやコレクションやじゅうたんや・・・とはちがった雰囲気です。お茶をさしあげるとしたら、あるいはご馳走になるとしたら、どちらをお選びになりますか。見せたい美術品を効果的にみせ、また主客双方の心がはっきりと読み取れるのはどちらでしょうか。禅宗から生まれた茶道はカウンセリングルームのはしりかもしれませんね。 利休が同じく新古今集の中から選んだ歌がもう一首あります。 茶の湯の歴史茶の寄り合いは14世紀からあり、作法もできていましたが、東山時代(足利義政は村田珠光に茶を学んだ)には唐絵を中国風にいくつも並べて掛けていた書院づくりの茶室が草庵風になったのは利休の工夫です。禅的なこころを日本の感性でとらえた場づくりといえます。また掛け軸も足利義政からのち広まっていく茶道に需要が追いつかず唐絵-宋や元の墨蹟-日本の僧-家元の書と、禅の教えをたどりながら移り変わりました。そう考えるとわび茶は大衆化、経済性を考慮した発明であったともいえそうです。日本家屋の室内意匠が茶室から発展したものであることを思うと、経済力にかかわらず表面には軸一幅の茶室を提案した利休の智恵はすばらしいものといえるでしょう。明治時代、岡倉天心は英文で茶の湯の世界を表現しわが国の文化とその精神を知らせました。世界文化と平和に貢献する道のひとつが、おいしくお茶をいただくために一切の無駄を省く、この総合文化、わび茶のこころの普及にあるかもしれません。 茶掛けと茶道茶席で一番の地位を占めるのが茶掛けです。にじり口から誰もいない部屋に入ると、まず床の間の前に両手をついて深く礼をし、お軸を拝見します。文言・作者・表装・寸法・年代などが鑑賞の観点です。掛物は禅僧の手になる墨蹟・家元の書・古筆切れ・消息(手紙)など。何を掛けてあるかでその茶会の趣向がうかがえます。ときには画賛もあります。そんなときには話題も軽妙に運ばれるでしょう。知り合いの文人の作品の時には共通の文化の話に花を咲かせようということですね。近・現代のもので茶の湯の心得がないとおぼしき人の作品や表具は茶掛けとしては好まれないようです。なお、博物館や美術館のなかったころには貴重な鑑賞の機会でもあったでしょう。このごろは国旗に対する礼儀を知らないとかいろいろ聞きますが、部屋の上座である床の間の掛物に敬意を払うことは亭主に敬意を払うことであり、礼儀の基本ですね。茶道はお茶の立て方、頂きかたの勉強だけではありません。礼儀の伝承と、それを通して和敬静寂ともいわれる心と、教養を深めるためのサロンです。会社で書類を提出する時の所作には相手への気配りと美しさがでます。敷居を踏まないのは建物の損傷を少くします。席順と挨拶は人間関係を円滑にします。道具の扱いは物と人への感謝の心を育てます。等等多くの礼儀が茶道によって継承されています。 公家や武士だけではなく茶の産地の百姓、茶道具や茶室建築の職人・商人、遊興の芸人・・・全国各地で茶道は生活文化を美しくし、深い心を育みつたえてきました。そこでは親孝行や、仲の良い交友関係、落ち着いた振る舞い、よくかんで食べましょうなど、礼儀にともなう人としての教養がすべてといっていいほど教えられました。その中に、文学を含む書の鑑賞と、お礼状などを書く書の実技も求められました。手習い(つまり国語)と算盤と茶道は文化国家日本の基盤であったと考えられます。 |
蘇軾( 話はかわりますが、今このページはIE5.0の彩りの多い画面を見て作っております。ネットスケープのあっさりした画面でご覧くださってる方もいらっしゃるのではないでしょうか。簡単に切り替えができ両方みれるとよいのにと思います。華やぎと侘びの両方を楽しみたい日本人的な贅沢でしょうね。この両面があってこそ両方ともに価値が高まるとは思われませんか。 主な参考文献 |
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