獨坐幽篁裏 弾琴復長嘯 深林人不知 明月来相照 (王維) 王維・自然詩人王維(700?〜761?)は李白や杜甫と同時代の詩人ですが、李白のように豪放ではなく、杜甫のように沈鬱雄渾な政治批判もない、綺麗、枯淡に人間の生活の楽しさを歌いました。唐の自然詩人、王維・孟浩然・韋応物・柳宗元のいわゆる王孟韋柳の代表と目されます。清の鄭板橋・揚州八怪書と画は鄭板橋の「竹叢図」を参考にしました。『鄭ショウ(上-火言火・下-又)(1693〜1765)江蘇興化の人、字を克柔、板橋と号した。進士に登第後は山東のイ(サンズイに維)縣の知府となり、よく善政を布いて住民に慕われたと言う。後、飢饉の年、住民を庇うの余り中央と衝突して官を去り、揚州に流寓してここで文墨に親しむ生活を送り、四隣にその盛名を謳われた。 世に言う "揚州八怪" は、鄭ショウ、金農等を中心とする自由人的芸術家の群で、康煕、乾隆間にそのユニークな書画によって一時代を画する活動を示して、後世へ大きな足跡を残したことは余りにも有名である。』 引用-- 「書道グラフ」1989.5月号(青山杉雨)・近代書道研究所 竹の図と「六分半書」鄭板橋の竹の絵と、彼みずから「六分半書」と称した、隷書と楷書を半分ずつ交えた書を真似てみたくなって「書道グラフ」を食卓において旬日ながめ、そのゆがんだ字が目になれたころ、彼は竹が好きなのだと確信をもちました。一点一画すべて、竹の節や小枝やはためく葉のようです。そこで書いてみたら腕前の差に愕然としました。もっと練習すれば、『痩勁孤高は竹の神、豪邁にして雲を凌ぐは竹の生』という鄭板橋の竹の見解に近づけたのでしょうが、ほんの少しでこうして掲載してしまいました。清の曾衍東は彼の書を、創作というより cf.上海博物館所蔵 中国明清書画名品展図冊 社団法人日本書芸院 (注)「六分半書」:隷書には |
書道史の上で、臨書の観点が形から離れたのは明の初期の文徴明(1470〜1559)や祝允明あたりからです。明末清初の王鐸(1592〜1652)は一日おきに臨書と自運(創作)を繰り返したそうですが、その臨書はあまり形が似ていません。その臨書作品は自運作品より高く評価されていたそうです。臨書でも本質をとらえた感動があれば、そしてだれか(後世の人であろうと)に伝われば芸術ですよね。書はそっくりに(不可能ですが)書いても盗作ではありません。 |
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