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--- NO22桜--- 目次---


NO.23 【 萬川集海 】
---解説【研究】---

このページの内容

 萬川集海

 萬川集海

 インパク(2001年インターネット博覧会)参加パビリオンの「忍者研究館」のホームページ内の小タイトルとして書きました。
 「萬川集海ばんせんしゅうかい)」というのは忍術秘伝書の名前です。

 忍者が巻物を持っているのは昔漫画本で見たように記憶していますが実際に存在したのですね。「萬川集海」は巻子本ではなく冊子本で、楷書・カタカナ混じりでていねいに書かれています。
 江戸時代(「萬川集海」巻首に延宝4年(1674)甲州甲賀郡陰士藤林保武の序文がある)の教育は初等教育がお家流で中等教育が唐様の楷書であったことから教育程度の高い人達によって書き写されて伝えられたことがわかります。

 内容は兵法書で、「孫子」のような理論は勿論、実際に忍びが使っていた道具の図も入ったすごい内容のようです。 「忍者研究館」 に実物写真もふんだんに掲載されています。

 300年以上前の兵法書ではありますが、人の肉体も風土もそんなに変化するものでない以上、こうした、特殊な職の伝える技術・理論や徳目にも永遠に役立つ知恵が含まれていると考えます。「孫子」の言葉が未だに書作品の素材として生きていると同じように、「萬川集海」の中からも長く愛される言葉が発見されることを期待します。

 「萬川集海」、巻之一 正心第一、の写真が出ています。四書五経が教養であった時代らしく「大学」の「本末」になぞらえて、『忍ノ本ハ正心ナリ 忍ノ末ハ陰謀伴計ナリ』で始まっています。そして『仁義忠信を守るのでなければ、強く勇猛な働きができないだけでなく、応変謀計を運ぶこともできない』 といった内容に続いています。日本式経営の根本を見るようで面白いと思います。工学面でも使える資料や技術が見つかるかも知れません。「忍者研究館」の伊賀上忍さんの研究成果が楽しみです。

解説は画像の下に続きます


萬川集海




 松本芳翠の楷書

 書風は「松本芳翠楷書手本」を参考にしました。
 近代日本の書道史を見ていると全く乱れの無い美しい楷書に目が止まります。唐の「九成宮醴泉銘」に基礎を置くと明らかに分かるすっきりした楷書です。
 松本芳翠は明治26年(1893)瀬戸内海の伯方島の薬局の長男に生まれ名は英一、字は子華、号は二葉、来吉斎、など、漢詩には漱雲も、芳翠は最も長く愛用した号。10歳で父に書の指導を受けるが家業を継ぐため上京して明治薬学校へ、卒業時に薬剤師の検定試験合格、未成年のため免許状は下りず、大成中学の4年に編入し、ここで書への関心が高まり書の道へ進み始めました。大正11年29歳のとき平和記念東京博覧会で紺紙金泥の細楷が1等賞の金牌を受賞し書壇にデビューしました。筆をなぎなたのように磨いで書く側筆風の楷書が有名ですが、楷・行・草・かな・篆・隷いづれも良い作品を残し、昭和48年78歳で亡くなりました。戦後の前衛書道に猛烈に反発し、対抗して、文字をよく識るものにも読み得ないのは書の埒外であると主張し、流行に流されず作品に信念を貫きました。

 楷書で基礎をつくれ

 松本芳翠の文筆から「楷書で基礎をつくれ」の一節を転載します。

 私の若いころ、書道を学びはじめた時分には、よく楷書十年などということを聞かされたものである。そうかと思うと、楷書三年という先生もあった。十年と三年とではたいへん違うが、いったいどっちがよいのか、もちろん長い方がよいにきまっているが、楷書に十年もかかるようでは、草書の手紙などがうまく書けるようになるには、いったい何年かかるだろうか、などと考えたものだ。
 しかし、何分にも好きな書の道であるから、そんなことでは辟易はしない。コツコツとやっているうちに三年経ち十年たち、今ではもういつのまにか数十年もたってしまった。それでも未だに満足な書はなかなか書けないのだから、今にして振り返ってみると、楷書十年という言葉もけっして大袈裟な言い方ではないようだ。書道はどこまで行っても、もうこれでよいという際限のないものだから、そこへ三年とか十年とか期限をつけるのもどうかと思う。
 (中略)
 断っておくが、ここにいう楷書三年とは、基礎的な運腕練習期間をいうのであって、その期間は楷書以外は何も書いてはならぬというような意味ではない。ただ運筆の法や結体の法は楷書によって学ばなければならぬもので、他はおよそその応用なのである。従って習っている手本は楷書でも、それによって練磨された腕のハタラキは、単に楷書ばかりのものではなく、同時に草、行の基礎であり、篆隷ないし仮名の基礎でもあるのである。そうしてそれを十分に会得せぬうちにあれこれと手を出すことは、結局において上策ではないところから、むかしから楷書の二字を冠しているのである。だから基本三年という方が適当であるかもしれない。(後略)

 「節筆」の研究

 松本芳翠が書道史に残した功績はもう一つ。草書の古典、孫過庭の「書譜」(687)に関する新説を発表したことです。彼は現在の真蹟の写真本がなく拓本の印刷本しかなかった時に、同一線上に現れている不自然な筆遣いに気付き、「書譜」は紙を折って書かれたものであると考え、大正13年に書譜の真蹟写真が日本に紹介されるに及んで、昭和4年「節筆せっぴつ)」と名づけ、書の研究者としても有名になりました。芳翠はそれまでの刻本と比較研究して、節筆が紙の折り目であることに関連して、この真蹟本が双鉤本ではないことを証明し、また刻本「天津本」は精刻だが冊子に仕立てるためわずかだが行のゆがみを修正してありこのために節筆の意味するところがわからなかったこと、宋代の刻本「元祐本」が見かけによらず真蹟からの刻本と考えられる点があることを発見しました。
 この論考は用紙の折り罫の研究として発展をみました。折り目が八分の等しい間隔で同じ向きであることなどからへらのようなものでつけられた「うら罫」である(西川寧の説)、王羲之の草書にもでているので偶然同じような紙を使ったのではなく孫過庭の王羲之研究の成果として意図的に使われている草書技法と評価する(今井凌雪の説)などです。

 せっかくこの稿を掲載するのだからと私も紙を折って書いてみました。紙・筆・墨・速さなど条件が整わないのか同じ形に節筆が出ることはめったにありません。特に意識して書けば出ます。へらで罫を引いても・・・一番似るのが扇子に半紙をのせたときです。そこでもしかしたら机か下敷きに工夫があったのかもしれないと流し台に掛けている金属のすのこの上に半紙を乗せて大筆で数文字書いてみると時々似た表情がでます。ただ中国産の紙ではこの場合無意識では出にくい。・・・時間がかかりそうなのであきらめましたが、素直な線に表情をつける技法として使えるかもしれないと思いました。いづれ絵画的な作品を作るときに使うかも知れません。

 日本の技術研究

 直接書法に関することではないのですが、日本の研究として、二玄社の複製品について記しておきます。
 中国の名宝は戦争を避けて現在台湾の故宮博物院にあることは周知のとおりですが、日本の二玄社が特別の委嘱を受けて書画の複製品を作り現在故宮博物院に展示されています。本物は光を避けて長期に保存され、見学者はいつまでも1989年ころの状態が鑑賞できるのです。
 完成当時の「中国書画名品展」は私の職場の近くの会場にもやってきました。連日、書譜や黄州寒食詩巻や前後赤壁賦や王羲之の唯一現存といわれる快雪時晴帖などを観に通いました。あるとき向かいで見ている人が作品を手でなでました。ハンカチを手に息を殺して見ていた私は驚いて回りを見渡しました。結構な人の入りで所々でセールスマンが説明や商談をしていて、作品は壁と机にガラスケースもなしで陳列されています。そこでやっとこれらが複製品で販売見本なので手で触られることは承知の上だということに思い当たりました。そこで紙の上に表具の糸がほつけて懸っているところを触ってみました。するとそれは紙の肌触りでした。視力のよい私にとってたいへんな驚きでした。これが日本の技術なのだ、と何の拘わりもないのに誇らしく思いました。
 17メートル以上の草書千字文や幅1.5メートル程の画軸などをひずみなく撮影する巨大な写真機・印刷機・古色を印刷するインキ・大きくて多色刷りに耐える紙・・それらは10年掛けて発明されました。世界の文化財の保護と普及に役に立つすばらしい研究です。

 研究は書物やWEBから情報を集めて繋ぎ合わせ論評するのではなく、実体験から生まれたものが尊いように思います。書の勉強もお手本を書き写すだけでなく工夫して言葉にまとめ、作品に表現するのがよい方法ではないかと思います。2001.8.9.     

  主な参考文献  「書道ジャーナル」 季刊17 書道ジャーナル編集室 
             「書道技法講座13 書譜」 今井凌雪編 二玄社
             「書道講座1 楷書」 西川寧編  二玄社     
             「NHK趣味百科 書道に親しむ」 講師・谷村憙斎 日本放送出版協会


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