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不 動


不 動

 尊徳は床のかたわらに不動尊の像を掛けていた。 客人に「不動を信仰なさっているのですか」と問われて、答えた。
  「私は壮年に小田原候の命を受けて野州物井村に来ました。 人民は離散し土地は荒れ果てていてどうしようもなかった。 そこで成功するしないにかかわらず生涯ここを動かないと決心しました。 たとえ事故で背中で火が燃え始めようと決して動かないと、命を掛けて誓いました。
  不動尊は動かざれば尊しと読む。私はその名前と、背中が火事でも動かない像の形を信じ、 この像を掛けて妻子にその心を示しています。不動尊の効験があるかどうか知りませんが、 私が今日に到ったのは不動心の堅固ひとつにあります。」(二宮翁夜話)

 報徳記によると、家も田畑も売って妻と3歳になる子供をつれて故郷を去って、 このひどい村に着任した。今までの担当者はみな半年もいないで逃げ出して、 誰もここに着任するものはいなくなっていた。 金を与えて復興するものならもうすでに復興しているはず、 と藩の援助金も自分の給与も断ってのボランティア役人だった。
 貧困の村人たちに衣食住を与え、移民を招き、開墾に励んだが、邪魔する村人たちがいる。 心を込めて恵むほど災難に見舞われる人もある。 やがて、枯れる寸前の草木に肥料を施してはならないと気づいて、 働く意欲のあるものだけに施すことにした。 それを、視察に来た藩の役人たちがひどい行為だと上申した。 藩主は金次郎(公文書では金治郎)の味方であったが、 金次郎はある日ふと黙って家を出てしまった。
 成田の不動尊で断食祈願をして満願の日、村から居所がわかったからと迎えがきた。 帰ってきてくれなかったらどうしようと自分たちの首の心配をしていた上司や村人たちは 以後心を入れ替えて金次郎に協力するようになり、 3年目にしてようやく改革は進み始めたという。
「不動」は尊徳の座右の銘である。


背景画像

背景画像にしようと縦横いろいろ考えたが、 もっとも不安定な円形に入れてみることにした。
小篆で、何とか円形に収めようと努力した結果、 この字形に落ち着いた。

筆:かをり (松林堂)
墨:胡麻油煙墨 (寧楽)
紙:中国手漉単宣 24cm×25cm

文字の多いトップページの背景にはなまでは落ち着かないので ちょうどユキヤナギが散っていたのを撮って、 繰り返し重ねて、目立たない画像にした。  2003.4.21.

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美術館で元の趙孟フ(子昂)の作品を見て、 記憶にあるうちにと、小筆でちょっと臨書した。楷書と篆書。
当然とはいえるが、やはりそっくりには書けない。
これも背景画像にした。 ↓↓マウスをのせるとこのページの背景画像がこれに変わります。
加工に使った写真は近所の公園で撮った。草が青々、5月1日。 カメラを構えると鳩が集団で飛んできて一瞬恐ろしかったが、やはり平和のシンボルだった。















 2003.5.5.


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